12/23 はじめの章 途中まで

12/23

はじめの章の、仕事でやらかす前の部分まで賭けたんで以下、載せます。大筋といいながら書きたいこと書いてまとまってないの、ホントぼくだなって思います。

 

 はじめに、大筋をまとめる。話がバラバラで伝わらなくなるのをふせぐため。せめて、会社で学んだことは生かしていきたい。

 僕はキリギリ12月で会社が決まった。僕を崖っぷちで拾ってくれた。僕を救い出してくれた。それが、忠誠心のようなものを生んで、会社に対して批判的な目をむけられなくなった原因だったとおもう。

 会社の研修では、理系出身というのもあって、好成績を残すことができた。また、リーダーシップ性も買われた。会社の採用は、社員数1000人を目指しており、文系でも研修で学べばエンジニアになれると謳って文系理系問わず、また、早く就活を終わらせたい学生を釣ってとにかく人を集めようとしていた。

なので僕は理系として、同期の理系分野を支えるという役割で活躍るることができた。後述するが、同期は80人以上いた中で現在43人しか残っていない。これからもへることだろう。

 研修が終わり、会社と派遣先の都合もあって、9月に配属となった。

 派遣先の会社では、開発プロセスの変化についていくための人財が不足しており、派遣社員なのに新人という、焼きそばの蕎麦抜きのような、そう、技術者の技術抜きな人間が入ることができてしまっていた。

 派遣社員なのでOJTはない。自社は、お客さんである派遣先で学んでこいというスタンスである。この時点でめちゃくちゃとはおもわないか。

 しかし僕は恵まれていた。派遣先の副部長が逐一指導してくれたのだ。新人なので技術面では期待しない。学ぶことからスタートしてほしいという考えのもと、僕ともうひとりの同期をむかえてくれた。

 配属から次の年の2月まで、会社での資料の探し方、製品の構造についてを学ぶ時間として設けさせてくれた。

 その間に、12月に成果を発表しろと自社から通達があった。新人なので学ぶという時間の中で、成果なんてものを期待するのかと疑問におもった。

 しかし、この時点で僕は同じ派遣先の自社のリーダーから高く買われていた。少なくともぼくはそう捉えていた。同じ配属の同期が活躍するには学ぶことが多すぎたこと、僕が機械工学のバックグラウンドを生かしてスムーズに製品を理解できたことがあったと思う。

 自社から期待されていたと感じていた僕は、何とか成果をひねり出して、成果に見えるように言葉をいじって発表資料を作った。時間がなかったのもあったが、成果内容の書きぶりについてひねって弄ったところを直に観られるのが嫌だったという思考があって、派遣先に見せずにそのまま発表をむかえた。

 この時点でエンジニアとして、社会人として間違いを犯しているが、誰も指摘はしなかった。気付かれないように行っていたためだ。

 発表は練習を重ねたおかげもあり、スムーズに発表できた。同派遣先の自社チームからもいい評価をもらった。

 年が明けて2月、派遣先で、具体的に案件を受けるようになった。大雑把に言えば、試験環境の構築だ。

 僕らの部署は、各部署とのやり取りが中心で、ぼくも他部署の助っ人的な立ち位置で仕事を行うようになった。

 ぼくは新人なので、当然不明点だらけだった。

 社会人的には、まだOJTのもと仕事をしているはずで、メンターというのだろうか、そういうのが付きながら仕事を進めているはずの人間であった。

 他部署の担当者がそのメンターのようにつきっきりで指導してくれるのなら良かったが、そうではなかった。むしろ、普通の社員さんと比べても、教育の観点で言えば不親切な人だった。

 ぐちを言っているようだが、なぜメンターがつきっきりで指導に当たらなければ行けないのか、今ならわかる気がする。おおきなミスは、小さな伝達不足が積もって起こると思っている。

 小さな伝達不足、言われたこととやっている事のギャップは、つきっきりで観てあげないと気づかない。そして、近い距離感で普段から話せる人間関係のもとでそれらを聞き出すことができる。

これをかなえるのがメンターであるとぼくは思う。

 ずれたが、そんなわけで、ぼくは、技術者の技術抜きのメンターなしの中で仕事を進めて行くこととなった。