11/29 無意識の中で事実を脚色してしまう人は科学をすべきでない

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僕は学生時代、よく「現象を素直に捉えなさい。観測された現象に嘘をつくことは科学者としてあるまじきことだ。その考えで科学をすれば、いずれ人を殺すことになる。」と言われました。これだけのことを”よく”言われたということは、一向に改善の余地無しで何度も言われていたということなんですが、この辺の思考って、けっこう個人の本質的なところになって来るので、僕は一向に直せませんでした。

科学を扱って仕事をする人間、すなわち研究者やエンジニアなんですけど、彼らは、ごっちゃになっている現象や要求(要件)を一般化などをして見える化して実現させるのですが、つまりはごっちゃになっているものから本質を捉えてそれは一体何なのかを捉える事ができる人たちなんですよね。実現させるために彼らが常に何を正解として動いているのかというと、”事実”であります。

一方で、アートや音楽家、に代表される各種作家、表現者、すなわちクリエイターなんて言われている人の一部は、頭の中のもの、またはクライアントの要求(要件)を感性でもって形にするのが仕事ですよね。ごっちゃになっている要求、イメージから何を満足させれば良いのかを実現させる人たちです。

実現させるにあたり、彼らが何を正解としているかというと、創り手の”感性”、クライアントの”感性”であるはずです。

何が言いたいのかというと、どちらもいままでなかったものを要件や、イメージから実現させるのに、正解とする指標が全くもって違うということを言いたいのです。

 

ぼくの中で何が起きるのかというと、科学で仕事をするにあたり、正解とする基準の中に感覚を入れてしまう事が多々発生しているということが起きているのです。

感覚自体を事実に基づいて判断することは科学なのですが、

現象を判断するのに感覚を用いてしまうのは、科学ではご法度です。

一方で表現者の中では、感覚こそが正解なのです。どう受け取られるかが大事なのです。

科学では、複数の意味で捉えられる伝え方をするのはご法度ですが、

表現者の世界では、一つのアウトプットからたくさんのことを考えさせられるものが素晴らしいものであると評価されています。

 

科学の世界では、事実を事実のまま伝えなければもはや科学ではありません。

表現者の世界では、事実を脚色したり、事実断片的に使って表現する事ができます。

 

僕は、無意識の中で、事実の中に独自の解釈を入れて理解してしまう人間です。

これは事実に脚色をしてしまっているので、根本的に科学をすべき人間ではないのです。しかし、今は科学で仕事をしている会社で働いています。

 

そして、いつも業務ですべきことの事象が頭の中で無意識的に書き換わっていて、頼まれたことを最低限同じようにアウトプットができないのです。

そして、これを直すよう再三注意されるのです。いまは注意されているので幸せな身分ですが、過去の経験上、やがて絶望されてしまいます。誰も相手してしてくれなくなります。そりゃそうです。言ったこと理解してもらえないのですから。

表現者の世界では、それはきっと独自性として、ときに高く評価させるものなのでしょうか。だとしたら羨ましいです。

少なくとも僕はいまの感性のまま科学をすべきでないのです。ただ、他にどうしようもないのです。誰か僕を拾ってください。

人に言われたことをそっくりそのまま最低限把握するのが苦手であって、自分の考えは無尽蔵に出てきていて、それを表現したところで皆さん正常な方なので理解してくれるんです。

僕のような人がらを持っている以上は、表現者に早くなりたいです。

 

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